多忙っていうか
自ら掘った墓穴を必死こいて埋めている感じの毎日です。
いや、既に自分も埋まってしまっているか。
しかし例えそうだとしても、ユマ・サーマンだって映画「Kill Bill」の中で重傷を負ったまま棺桶に密封&生き埋めにされた状態から脱出できたんだから俺にできないはずがない。なのでもう少しフンばりますです。
ボーカルさん、ccjankyくん、コメント返事しないですいません。僕が間違ってました。これからはちゃんと返事するので許してください。
ボーカルさんの紹介してくれた映画は残念ながら観に行けませんでしたが、今の馬鹿げた政治にもの申す一方で、紹介文の中で触れられていたように国とか平和とかいうでっかい対象に「自分が」どのように向き合うかということを考えるのはすごく大事だと思います。ていうか本来こっちを先に考えるのが基本ですよね。最近の国会の暴走ぶりを見て軽いパニックに陥りこの事を忘れつつあった僕にはズシリと響く指摘でした。
2 Comments:
>国とか平和とかいうでっかい対象に「自分が」どのように向き合うか
『人はなぜ生きるのか?』とか、『幸せとは何か?』とか、そういう問題はややもすると安易な自分探しになりそうで、それを突き詰めると、人に迷惑をかけなければなにをしてもいい(私は私の幸せを追求するわ!)という、高度資本主義的な利益の追求(たいていの人は搾取されてしまうのだけど)につながってしまう気がするのです。
じゃあどうするか、と考えると、『いかに良く生きるか』ということを考えるようになる。それこそ、ゴミの分別から政治的な発言まで、その都度、自分がそれらにどういう態度でいるのかということを考えていくことが大切になる。
ただそれは、アメリカ的な、常にShow The Flag!じゃなきゃいかんよ、ということではなくて、その都度考えるということです。すぐに判断する必要も無いし、即行動する必要も無い。ちゃんと考える。その上で、よくわからん、という選択もあると思う。どっちもあり、ということもあると思う。
世界に対して自分が開かれていて、いつも考えることのできる態度である(余裕がある)こと、というのが、『いかに良く生きるか』なのかなあ、と最近は思っています。
「良く生きる」っていう言葉,俺は好きです。「良く」という言葉が指す意味内容はそれこそ人間の数だけ多様だと思いますが、それを超えて、自分の考えや言動には責任を持つぞい、という覚悟が感じられるところが、良いと思います。
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